News / 詳細内容
 
No.
/
題名
/
登録日
33
 
佐賀新聞の論壇に廉宗淳のコラムが紹介されました
 
2010-01-21
矯角殺牛
中国では昔、鐘を作る際に、角が真っ直ぐに出ていて健康な牛の血を鐘に塗って祭祀を執り行なう風習があった. ある農夫が祭祀に使う牛の角が少し少し拗くれていて、それを直そうとして、ひもを角に巻き柱に縛り付けましたが、引っ張りすぎた故に、角が根こそぎ抜けて牛が死んだとの話から由来したとされるが, やや小さい欠点を直そうとしたが手段が度を外れてむしろ大きい損害を被る場合を比喩した言葉だ.
先日、私の家の近くにあるキリスト教の教会学校に、ポスターが張ってあったので、近付いて読んでみたら、内容としては、道に迷った運転手が小学生らしき子ともに道を来ている絵で、要するに知らない大人から道を聞かれたら、知りません!と言って逃げるべきという内容であった。一瞬、納得はしたものの、本当にそれで良いのか?大変、悩ましい問題と思った。
確かに世の中には悪い大人たちがいて、子供たちの安全を脅かすのも事実ではあるものの、すべての大人について、警戒するように締め付けることこそ、弊害が大きいと思う。
それ以外にも、子供たちには、様々なところに危険要素が混在している。より根本的な対策を考えるべきではないか? 大人から道を聞かれたら、逃げろ!ではなく、常に良い大人と悪い大人を切り分ける能力を植え付けないと行けないのではないか? これらの教育は結果的に子供のごろから人に対する不信感を高めることになり、大人になっても、他人は常に警戒する対象になり、到底友愛のところが、殺伐な世の中になるのではないだろうか? 数年前の大阪の池田小学校での無差別殺人事件は、凄惨な事件が記憶に新しい。犯人が小学校に刃物を持って乱入し、子ともや先生を切り付けた事件であった。その後、全国の学校では、それらの対策の為に、学校の壁を高め、不審者の学校への侵入を防ぐために、警備体制を補強するなど、一時期大騒ぎになった。しかし、それで対策は十分なのか? 先日、ソウル江南区の小学校にICT(情報通信技術)を使った教育の現状の視察に行ったことがあり、その際に訪問した小学校は、学校の壁を取り壊していたので、壁を頑丈なものに作り直すのかと聞いたところ、学校関係者からの応えは、意外と全く思いもよらない言葉であった。その国でも、日本と同様の事件があり、それらの対策の一環で、壁を取り壊し、そこに芝を植え、木を植え、花も植え、近所の住民たちが遊べる場にする工事をするとのことであった。不思議に思い、それで安全が保つかと不審者の対策になるかと聞いたところ、それでは、壁を高めたら安全を保つのかと聞かれた。いくら壁を高めても犯罪に手を染める人間は、犯罪に手を染める、むしろ、壁をなくし、住民の目が届くようにするのが、子供たちと地域住民と触れあう機会を増やすのが、より安全で、確実な対策である、さらに住民と学校や子供の間に心の壁がなくなるのではないかとの意見であった。勿論、それらの話に100%、納得できるものではないものの、一つの考えとしては筋が通ってると思った。改めて、矯角殺牛という4文字熟語を思い出す。言葉の意味のように、常に何ことがあっても、目先の対策ではなく、問題の根本的な原因を把握し、それにふさわしい対策を立てるべきであろう。